昭和39年12月19日 朝の御理解



 どんなに覆い隠しておりましても、何かの拍子に、心の中の汚いものがちらっと、こう覗く。そういうような時に、例えばあの、人と人との場合でも、ほんとに、「あんな汚いものがあの人にはあるんだ」という、幻滅を感ずるようなことがございますでしょう。また、それと反対なこともいえますですね。あの人にはあんなに美しいものがあるとは気が付かなかった、と。それがちらっと覗くと。
 私はこの、「ちらっと覗く」ということですね。これは人間の場合でも、その人に対して、その人の、に対して幻滅を感じたり、その人に対してその人を尊敬したりするのは、ちらっと覗くということだと、こう思う。ですから問題は、よいものにしろ、悪い者にしろです、その、中身によいものがなからなければ、ちらっちらっと覗かせることができん。また、私どもがです、ちらっと自分の心の中にです。

 そういう汚いものが自分の心の中に感じたりしたならばです、それにこう本気で取り組ましてもらおう、とっちめて改まっていこうというおかげを頂かせてもらわなければならん。この、ちらっと覗くということ、たいへんな働きになることですね。「まぁ私はもうあの人ばかりは、あんな人とは知らなかった」。それがちらっとのぞいただけでも、ほんとに幻滅を感ずるような場合がありますですよね。
 ここ四、五日、古賀先生が少し喘息が起こりそうだ、まぁというので休んでおります。ですから結局子供のことを願う、切実に願うならお母さんが一番でなからなきゃならん。ここ二、三日私はもうほんとにまあ言うなら、古賀先生がああいう状態の時に、今朝の御理解を頂いたら元気が出ろう、と思うような御理解ばっかりを続けて頂く。ところがお母さんが見えない。御理解にも出てこない。ね。
 もうそういう時にほんとにこう寂しいんですけれど、そういう思いがやっぱり通うのでしょうか、古賀さんも何かこの、御結界に寄り付きにくいごたる感じを受けるのではないでしょうか。「こんなことじゃいかん、こんなことじゃいかん」というふうに、古賀さんは大体その、昔から朝起きができない性分らしいんですね。けれどもここんところを、しかし椛目に来てから修行するならば、ここで修行するよりほかでなか。
 私は例えば朝の御祈念なら朝の御祈念に、一分間だって遅らせちゃならんという、一途の一生懸命なもの。修行で言うならここを椛目で修行しなかったら、もう修行する事なかって。まして息子がならおかげを受けなければならん時にです、ね、その日の朝のその御理解にも頂けない様な事でどうするだろうかと、こう私が思うそのそれ思う。今朝私お障子があかつた出会い頭に、古賀さんがそっから入って見えた。
 それこそちらっとドアが、別にこう私がこちらを覗くわけではないけれどもです、入ってこられるのか、私は、出て来るとこも、ちらっとじゃあったけれでも朝の御祈念に間に合うておられたです。もうほんとに、そりゃもうじょうけんに及ばんくらいにお願いがしょいです。これは言わば、古賀さんの元気な心がちらっと、そのまあ、覗いたわけなんですけれどもですね、
 ほんとにこの「ちらっと覗く」ということは、たいへんな一つの何て言うんですかね、魅力というか、そういうようなものを持っておるものだということですね。だからもうそれは、意味がちょっと違いますけれども、私どもの心の中にです、ね、ちらっと卑しい心が、そのう動くちらっとそれが出る。もうそれでですね、その人の値打ちが台無しになってしまう。では反対にです。
 ほんとに自分の心の中に美しいものがあれば、それが日常として出すのじゃない、ちらっとこう出る。ね、露出しておりますよりも、ちらっと出たくらいの方が、あのう何ですかね、与えれる力が大きいということ。私どもが「私はこげな美しい心持っとる」ち言うてから、その言うて、するわけじゃないですけれどもですね、それが何かの調子にちらっと出るということですよ。あの人は汚い人だ、あの人は美しい人だ、と。ね。
  そこに感ずる、そのまぁ相手に与えるものと。これはやはり、神様と私どもの場合だって同じことだと思いますね。氏子の心の中に覗いておる、ちらっとその見える例えば、古賀さんの、なら今朝の元気な心だけでもです、神様の受けというものは、そんなにも違ってくる。今日は私ども、自分の心の中にちらっとでも動くもの。、
 一つとっちめてです、それがよいものならば、いよいよ有り難しと、それを育てていき、それがもし、神様に、の機感に適わんようなもの、人に嫌われるようなもの人に幻滅を感じさせるようなものであるというようなものが、ちらっとでも覗いたらです、それにこう取り組んでです、おかげを頂いていきたいと思います。もうほんとにね、あのう幻滅を感じさせますとね、もうそれを元取るのに非常ーに骨折ります。ね。
 ですから、これは自分自身の心の中に、そのちらっと覗く、そのそれをとっちめたり、育てたりするということなんですね。ね。そこへとしはもうたいへんな、何というですかね、信心を進めていく上におかげまで開いていく上に、大きな基点というかね、おかげを受けられるか受けられないか、信用を受けるか信用を落とすか、というか、そのものがあると思うんですね。どうでもそのおかげを受けられる方、信用の受けられる方の側のものがです、ちらっと覗くようなおかげ頂なければならんと思うですね。